尾崎紅葉 別れの松
明治の文豪、尾崎紅葉の歌碑が、私の住んでいる所のすぐ近くにあるので紹介します^^
尾崎紅葉と言っても、誰?その人?って言われそうなのですが・・・慶応3年12月16日(1868年1月10日) - 明治36年(1903年)10月30日)に生きた、その時代を代表する小説家の一人です。その作品の中で有名なのは、「金色夜叉」でしょう。
学生の間貫一のいいなずけであるお宮は、結婚を間近にして、目先の金に目が眩んだ親によって、無理やり富豪の富山唯継のところへ嫁がされる。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。やがて、貫一は金を捨て、お宮と再会する。
♪熱海の海岸を散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り♪の歌でも有名ですし、また、熱海の海岸での貫一のせりふ、「いいか、宮さん、一月の一七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いて居ると思ってくれ。」これも有名だと思うのですが^^
さて、そこで、なぜその尾崎紅葉の歌碑が近くにあるかと言う事なのですが・・・紅葉が金色夜叉を読売新聞に連載していた明治32年、もともと病弱であった事もあり、この長期連載が災いして体調を壊してしまうのです。そしてその療養の為に、同年7月~8月の一ヶ月の間、佐渡へ渡って来たのです。その間の7月19日から7月29日の10日間、小木の港町に滞在した時の事です。紅葉は「ごんざや」と言う旅館に入り浸るのですが、そこにはお糸と言うお抱えの芸者が居ました。
お糸は、文学が好きで、良く小説を読んでいた事もあり、すっかり紅葉に気にいられ、程なく2人は恋におちるのです。しかし、それは一時の恋。。。時代の作家である紅葉は、間もなく東京へと旅立つ日がやって来るのです。そして7月29日の別れの日、小木の港から約10里の道のりを、両津へ向けて旅立ちました。当時、車などはなく、徒歩での旅でした。旅立つ紅葉に別れを惜しみ、小木から3人の男衆とお糸が見送りに付いて来ました。夏の暑い盛りの事です、小木から約2里、この地の三階旅館で休息を取り、間もなくたどり着いた谷間を回る道の手前で紅葉は別れを告げます。お糸さんは一言も話さなかったそうです。
紅葉の影が密林に隠れ、そしてまた姿が見えた時、谷間を挟んで弓の両端にいる様に立ち、見送りの皆が声を上げ、お糸は両手をいっぱいに上げていた。紅葉も帽子を振ってそれにこたえ、別れを惜しんだのです。
その時、読まれた句が、この石碑に刻まれています。
「汗なんど ふいてもろうて わかれけり」
谷間の向こうに道が見えます。松の下に立つ紅葉に、別れを惜しんだお糸さんが、両手をいっぱいに広げる昔が、私にはそこに見える様です。
両津港より旅立つ日に、紅葉はお糸に半紙5枚に渡る手紙を書いています。そこには、別れの日はお糸だけに送ってもらって、色々と話しをしたかったのだが、他の人を断る訳にもいかなかったので、はなはだ不満の残る別れだったという事や、また佐渡を訪れるので、その時には良い人と結婚して母になり幸せになっている事を願うと言うような事が書いてあったそうです。 その後紅葉が佐渡を訪れる事はなく、お糸との別れから4年後に胃がんによって亡くなっています。
金色夜叉は未完の作品です。
☆☆☆ 最後まで読んで頂いてありがとうございました。 ☆☆☆
今日の佐渡の各地の様子が、5分間隔の静止画像で見れます。下記リンクからどうぞご覧ください。
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尾崎紅葉と言っても、誰?その人?って言われそうなのですが・・・慶応3年12月16日(1868年1月10日) - 明治36年(1903年)10月30日)に生きた、その時代を代表する小説家の一人です。その作品の中で有名なのは、「金色夜叉」でしょう。
学生の間貫一のいいなずけであるお宮は、結婚を間近にして、目先の金に目が眩んだ親によって、無理やり富豪の富山唯継のところへ嫁がされる。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。やがて、貫一は金を捨て、お宮と再会する。
♪熱海の海岸を散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り♪の歌でも有名ですし、また、熱海の海岸での貫一のせりふ、「いいか、宮さん、一月の一七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いて居ると思ってくれ。」これも有名だと思うのですが^^
さて、そこで、なぜその尾崎紅葉の歌碑が近くにあるかと言う事なのですが・・・紅葉が金色夜叉を読売新聞に連載していた明治32年、もともと病弱であった事もあり、この長期連載が災いして体調を壊してしまうのです。そしてその療養の為に、同年7月~8月の一ヶ月の間、佐渡へ渡って来たのです。その間の7月19日から7月29日の10日間、小木の港町に滞在した時の事です。紅葉は「ごんざや」と言う旅館に入り浸るのですが、そこにはお糸と言うお抱えの芸者が居ました。
お糸は、文学が好きで、良く小説を読んでいた事もあり、すっかり紅葉に気にいられ、程なく2人は恋におちるのです。しかし、それは一時の恋。。。時代の作家である紅葉は、間もなく東京へと旅立つ日がやって来るのです。そして7月29日の別れの日、小木の港から約10里の道のりを、両津へ向けて旅立ちました。当時、車などはなく、徒歩での旅でした。旅立つ紅葉に別れを惜しみ、小木から3人の男衆とお糸が見送りに付いて来ました。夏の暑い盛りの事です、小木から約2里、この地の三階旅館で休息を取り、間もなくたどり着いた谷間を回る道の手前で紅葉は別れを告げます。お糸さんは一言も話さなかったそうです。
紅葉の影が密林に隠れ、そしてまた姿が見えた時、谷間を挟んで弓の両端にいる様に立ち、見送りの皆が声を上げ、お糸は両手をいっぱいに上げていた。紅葉も帽子を振ってそれにこたえ、別れを惜しんだのです。
その時、読まれた句が、この石碑に刻まれています。
「汗なんど ふいてもろうて わかれけり」
谷間の向こうに道が見えます。松の下に立つ紅葉に、別れを惜しんだお糸さんが、両手をいっぱいに広げる昔が、私にはそこに見える様です。
両津港より旅立つ日に、紅葉はお糸に半紙5枚に渡る手紙を書いています。そこには、別れの日はお糸だけに送ってもらって、色々と話しをしたかったのだが、他の人を断る訳にもいかなかったので、はなはだ不満の残る別れだったという事や、また佐渡を訪れるので、その時には良い人と結婚して母になり幸せになっている事を願うと言うような事が書いてあったそうです。 その後紅葉が佐渡を訪れる事はなく、お糸との別れから4年後に胃がんによって亡くなっています。
金色夜叉は未完の作品です。
☆☆☆ 最後まで読んで頂いてありがとうございました。 ☆☆☆
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